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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

直言曲言第196回 空気を読む

 言葉は時代とともに変る。前々回の直言曲言でふれたように古い言葉がどんどん使われなくなっていくと、情感や価値観が伝えにくくなっていき困ったことになりそうな気がする。余りにも早い言葉の変化には反対だ。女子高生やOLの隠語めいたスラングは男子生徒や男の上司などに聞かせたくない合言葉のような使われ方があるが、底の浅さのようなものがあってその世代限りの短命さがある。チョー○○とかキモイとかいう言葉が何十年も使われ続けられるとは思わない。しかし、言葉の新しい使われ方でも、時代にマッチしているのか、世の中に定着し、誰もが使うようになってしまう言葉がある。

 『カッコイイ』と言う言葉があり、今ではどこでも誰でもが使う言葉だし、余りかしこまった文体とはいえないものの、ことさらに品の悪い言葉でもないし日本語に定着してしまっていると思う。本来は『格好(恰好)』が「良い」とか「悪い」とかと言う使われ方をしていたものだが、多分昭和30年代頃(映画で石原裕次郎がデヴューした頃だが)スマートな若者のファッションを表現する言葉として『カッコイイ』が使われ始め、今に至っていると思われる。恰好『が』…と言う『が』という助詞が省略されており、恰好という言葉も『カッコ』という風に短縮され、まことに使いやすくなっている。日本語の用法としては『誤用』には違いないのだが、当時国語学者たちが昼寝をしていたのか、当時の風俗の変化が余りにもめまぐるしくて、古典的保守派たちも口出しが出来なかったのだろう。

 例によって私は専門家ではないので、余り敷衍(ふえん)化して言うことは出来ないが、専門学者ならこうした言い回しの変化はいくらでも例を挙げて解説することが出来るのだろう。昭和30年代と言えば、私などの少年時代から青春時代であり『カッコイイ』と言う言い方も、実は違和感なしに日常生活に溶け込んでいるのだが、平成時代となると大分時代感覚にもずれが出来て、馴染めない、どうしても違和感のある言葉も出てくる。違和感のある言葉の一つに『空気を読む』と言う言葉がある。『空気を読む』と言う言葉は、特殊な用法ではないし、短縮も省略もしていない。普通の言葉である。だから意味は私にもすぐ分かる。

 元素記号で表すような空気の組成を読むと言う話ではない。その場の空気、つまり雰囲気を理解すると言う意味である。『鍋の会』や引きこもりを考える会の『例会』などで、若者に自己紹介を命じると、たまに出てくる。それほど頻繁に聞く言葉でもない。この言葉は肯定的な意味で使われることは少ない。『空気を読むことが苦手』とか『空気を読むことが下手』と言う風に、否定的な意味に用いられることが多い。中学生や高校生のときに、クラスのそのときの空気が読めずに、一人だけ突拍子もない発言をして、自分だけ『仲間』から浮いていた。現在は引きこもりである自分のいわばカミングアウトともいえる場面で使われることが多い。カミングアウトであるのだから、今までは引きこもっていたが、これからは堂々と歩いていきます、という立場の表明なのだが、それにしても『空気が読めない』というこれまでの自分に対しては深刻な反省の気持ちがあふれている。『空気を読む』という言葉の意味が理解できないわけではない。ニュアンスも分かるし、難解なわけでもない。なぜそれほどに『空気を読む』ということを大切なことのように考えてしまうのか、そのことが理解しがたいという程度のことである。

昭和40年代頃、クレージーキャッツが全盛であった頃、先日亡くなった植木等は『およびでない?』というギャグで一世を風靡した。人々が真面目な雰囲気で話をしているところにステテコ姿の植木が登場して、『およびでない?コリャまた失礼しました。』と退場するあれである。植木等のギャグだか、作者である青島幸男のギャグだか知らないけれど、緊張感のある場面を茶化す秀逸なギャグであった。面白いギャグであると評価される一方で、素人の一般人などがこのギャグを真似ると、『場の雰囲気を理解しないやつ』とそれこそズッこけるようなこともあった。何十年か経って、こうした反省が若者の口から語られるようになった。その場の空気を読むなどということが、このように過剰に気にしなければならないのか。今の若者は余りにも技巧的な生き方に振り回されてはいないか。『空気を読む』という言葉はそれほど奇異な言葉ではないから、違和感を持つというほどには至らないが、『そんなに周囲の雰囲気を気にしているのか』と痛々しい気にさせられる。

 若者たちの言葉の中にはこんなものもある。それはメールなどで、独白調の文章を書いた後で、文末に(笑い)などと付けることがふえたことである。これは、もともとはお芝居の脚本や対談・座談会などの記録などで『ト書き』といわれる表現方法である。演劇の一場面などで役者が台詞を話しながら、ある動作を行う。例えば、台詞の後に(といいながら、舞台下手に消える)という風に、演技または演出の方法を示してきたものである。座談会では、誰かが話した言葉の後に(笑い)とあれば座談会で誰かが話したときに『笑い』が起こったこと、つまりなごやかな雰囲気で話されたことを示している。

 最近の若者の文章では、文末にやたらと(笑い)とか(怒)とかが付いている。これは一人称で書かれた文章の後だから、観客や周囲の人の『笑い』ではなく、筆者自身の(笑い)である。つまり、書いたことに対する筆者自身の笑いであり、言い訳でもある。まじめなことを書いてあるが、これは実は笑いながら書いているのであって、『それほど真面目な話ではないのだよ』という言い訳でもある。(怒)というのは『穏やかに書いているが、実は怒っている』という注釈である。『ト書き』の手法が、一人称の文章にも使われて、話し言葉だけで書ききれない文章のニュアンスを補うための説明文になっている。(笑い)とあるのは『どうぞ笑ってください』という程度の筆者から読者へのメッセージだが、中には(爆笑)とかと書いてあり、これでは面白くもないのに爆笑しなければならない、迷惑な文章である。

 (>_<)左のような絵文字を見たことがあるだろう。コンピュータの記号を用いて、喜怒哀楽の表情を表現したもので、これも若者の得意技である。パソコンや携帯電話でメールを送るときにこのような絵文字を描けなければ、堅苦しい人と思われるようだ。私なども必死で練習はしたけれど上手くは描けない。最近は随分下火になってしまったようで、ホームページを見ても余り使われてはいない。これも文章だけでは表現しきれない気分を絵文字で伝えようとする若者の流行である。そんなに気を使いながら文章を書いているなら、(笑い)とか、絵文字などを多用しないで、文章本文に気を使って書けば良いのに、と思うのだが、これも年寄りの愚痴なのだろう。別に『誤用』というほどではなく、いまや若者の『文法』として市民権を得つつあるのだが、やはり中年以上の世代には違和感を抱かせるのではないだろうか。小説や昔の人の文章も読んで当たり前の文章を身につけて欲しいなと思う。世代間に共通の言語が失われるのは淋しい。

2007.06.19.