ニュースタート事務局関西のウェブサイトはリニューアルしました。
新しいウェブサイトは、下記よりご覧ください。
http://ns-kansai.org/

NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

直言曲言 第262回 感 情

人間は感情の動物であると言われる。人間に感情があることなど「当然だ」と思われるのだから、ことさらに「なぜ?」と思えるのだが、一方で人間は理性的にものを考える動物だと思われている。理性的だと思っていても時に情に流される。しかも人間ほど豊かに感情を表せる動物はほかにいない。感情表現が人間の専売特許だとは思わないけれど、喜怒哀楽にたけているのは人間に近い動物らしい。人間の先祖だと言われる猿やペットである犬や猫はよく知られているように笑ったり怒ったり、ときには悲しんでいたりすることがある。感情がないとは思わないが鯨が怒ったり蛇が笑ったりしたところを見たことがない。犬や猫はペットとして身近にいるから笑ったり泣いたりするのか、あるいは表情をよく見ているから喜怒哀楽を理解できるのか、それとも喜怒哀楽を理解しやすいから家畜やペットにしたのか?

 喜怒哀楽を持つということは生命活動にある程度の余裕があるということではないだろうか。原始的な生命体には感情的な変化は少ない。敵からの攻撃など生命の危機につながる変化には怒りの姿勢を示すが、攻撃の危険が去ったからと言って「平和」を楽しむとか喜びをあらわすことはない。親や子や連れ合いが死んだからと言って、それを惜しむ気持はあるのだろうが、いつまでも悲しんでいたり涙を流すこともない。ほ乳類が他の動物に比べて生命活動が安定しているかどうかは知れないが、喜怒哀楽などの感情表現に近づいてきているように思う。あるいは頭脳の重量が表現活動を可能にしているのかもしれない。同じ人間にしても古代の人よりも現代人の方が感情表現が豊かなようだ。現代人でも軍人よりも民間人の方が感情豊かで、民間人でも自然と闘っている山間や農村の人よりも都会人の方が感情豊かである。ただし都会人でも東京や一部の大都市に住む人は感情が乏しく成ってきているような気がする。都会や地方に限らず引きこもりの青年を見ていると感情が乏しく、生命活動に「ゆとりがないのだな」と思わざるを得ない。

 喜怒哀楽が生命活動のゆとりというのは私の仮説だが、ひょっとするとゆとりがないから喜怒哀楽の感情を表現するゆとりをなくし、やがて喜怒哀楽そのものが失われてしまったかのように見えるのかもしれない。ニュースタート事務局関西の共同生活寮にも多くの若者がいるが、多くの寮生は最初ほとんど喜怒哀楽の感情を見せない。しばらくすると言葉は少ないが何かの拍子にはじけたような笑顔を見せることがある。何が面白いのか楽しいのか、それは別として、私はこの笑顔を見るともう安心している。正直に言うとそれ以降はもうその若者にはほとんど関心を示していない。放っておいても彼は感情を取り戻し、友人を作り社会に溶け込んでいけるからだ。ところが、中にはいつまで経っても感情表現ができない若者もいる。引きこもっている最中は周囲に対する拒絶感がいっぱいでもちろん無表情なのだが、入寮を決意して、アルバイトを始め、我々スタッフに対しても融和的になっているのに、相変わらず無表情で笑顔一つ見せないのだ。心を許してくれないのには何か理由があるかもしれないと思って、色々な働きかけをしてみた。しかし理由は分からない。さじを投げたのではないが、もう一つの仮説を考えてみた。引きこもり期間に心のゆとりをなくし、感情を表現する習慣をなくしてしまい、それがあまりにも長く続いたから、感情を表現する機能そのものがマヒしてしまいまるで感情がないかのように見えるのではないか…。

 私は昔から「男のくせに泣き虫」だと言われている。確かに自分でも「涙もろい」方だと思う。13年ほど前に母を亡くした時も、臨終の床に駆け付ける時の気持ちを短歌にして、葬式のときにはそれを思い出して独り泣いていた。葬式に列席してくれた母の従姉は式後の打ち合わせの時泣いている私に「この子は頼りない」とあきれて相手にしてくれなかった。私としては決して戦略戦術で泣いたのではないが、泣くことによって母の死の悲しみから逃れようとしていたのかもしれない。悲しい時に泣くことは、悲しみを少しでも和らげることになるのかもしれない。友人であり精神科医の野田正彰氏は名著「喪の途上にて」の中で突発的な出来事による肉親の死などは、人々はすぐに受け容れることができず、涙を流したりするのはしばらく時が経ってからだと言っている。すぐに泣くのが良いとは言えないが、涙は大事な人の死を受け容れる儀式でもある。

 歳をとった私は脳梗塞になってからますます涙もろくなった。涙だけではない。あらゆる感情に対して抑制する機能を失っていると言える。テレビを見ていたり、人と話している時、あるいは自分が話している時でさえ、ふと感動的な想念が湧いてきて、思わずむせてしまうことがある。脳梗塞などの患者にはよくあることだが、食事中に水や食物を気管に入れてしまう事故が良くあり「誤飲」という。そのために食道と気管支の間の弁の開閉を調節しなければならないのだが、私の場合には少しでも感動的な気分になると、この機能が逆に働いて食道を通過中の食物などを噴いてしまうのだ。思わぬ私の脳梗塞と習癖などを披露したが、私の場合、悲しい時には我慢をせず平気で涙を流すし、ちょっとしたことでも感動し、飯粒を噴いたりしてしまうが、日本人は感情の表出を抑制してしまう癖がある。特に男性はやたらと感情を現さないのが美徳であるとの風習がある。引きこもりの若者はストレスなどにより、もともと感情が抑圧されているが、これが長期化すると感情表現の機能自体が衰えてしまい、やがて喜怒哀楽そのものを失うのではないか。よく言われることだが、皆が笑うような場面でも、目が笑っていず「能面」のような表情をしていることがある。逆に口を利かず、皆が深刻な引きこもりではないかと心配しているような場合でも、彼の表情に含み笑いでも良い。笑顔を見つけると私は安心している。音楽でも演劇でもディベートでもどんな表現活動でも奨励している。又私自身楽しいことが大好きで、ニュースタートでの楽しいイベントを大いに奨励している。

 ニュースタート事務局本部(千葉)では近隣にあるディズニーランドで遊ぶ「ディズニーツアー」を実施している。「何をそんなお遊びを」と不思議がる向きもあるようだが、私には引きこもりが感情を豊かに取り戻すためにディズニーランドで遊ぶというエンターティンメントは必要なことだと思える。先ほど紹介した無表情な寮生のことだが、何とかして彼を笑わせようとスタッフ一同が苦労している。私など吉本新喜劇のNGK劇場などでもツアーを行い、彼を無理やりにでも連れていけばよいのではないかと真剣に考えている。

2009.05.11.