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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

酒と抒情

   幾山河 こえさり行かば 寂しさの
           はてなむ国ぞ けふも旅行く   若山 牧水

 手元に何の資料も持たずに記憶だけで書いているので,ひょっとするとどこか間違っているかも知れない.昔はこんな歌が好きだった.若い頃好きであったがいつの間にか,嫌いというよりも大嫌いになってしまった小説家や歌人がたくさんいる.石川啄木,宮沢賢治,太宰治….若山牧水も同じ.だいたいにおいて,これでもかの抒情歌人は嫌いになった.

   働けど働けど 猶わが生活 楽にならざり じっと手を見る   啄木

 啄木の天才は認めるけれど,こんなめめしい奴が側にいたら『もっと,もっと働かんかい,ボケ!』と,どやしつけたくなるだろう.賢治の偽善も,太宰の偽悪も<さようなら>である.昔あれほど好きだったのに,どうしたのだろう.ボクが歳をとって身体が段々健康でなくなってきたぶんだけ,心の方はどんどん健康になってしまって,不健康な『青春の文学』が嫌いになったのだろうか? きっとそうだろう.

 もうひとつ牧水の歌だが,これも抒情的なのだが,こちらはつい最近まで好きだった歌だ.

   白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の
           酒は静かに 飲むべかりけり

 若い頃から酒飲みだった私は,旅先の知らない町の酒場で,静かに酒を飲み,その自分が一人で酒を飲む孤独な姿におぼれていたことがある.太宰ファンなら誰もが知っていると思うが,銀座のバー『ルパン』のスツールの上で酔っ払って傾いている太宰の写真がある.あのまま,酔っ払って歳をとってくれていたら良かったのに,と思うことがある.孤独に酒を飲んでいるときでもその酔い姿を真似〔まね〕ていた.静かに飲むという雰囲気ではないかも知れない.今は,鍋の会で若い人たちに囲まれたり,サポーター仲間と議論しながら飲むにぎやかな酒が好きである.

 杜甫や李白など中国の詩人にも酒にまつわる詩が多い.酒を愛する心は,人生を嘆いたり,称〔たた〕えたりするたびに言葉をつむぎ出して行くようだ.私は国粋主義者などではないつもりだが,やはり日本の風土の中で生み出された歌には共感しやすい.万葉の歌人山上憶良に次のような歌がある.『宴より罷〔まか〕るときの歌』とあり,任地だった大宰府での宴会で中座して返るのを呼びとめられたとき,即興で作ったのだろう.

    憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其(そ)も彼(そ)の母も吾(あ)を待つらむそ

 要するに,『わしはもう帰りまっさ.子どもや女房が待ってるやろから』という意味で,酒のみとしてはとんでもない無粋〔ぶすい〕な奴なのだが,即興でこんな歌を残すとはかなり面白いキャラクターであったようだ.私も30歳前後に子どもができた頃はこんな心境で,大好きな酒の席もそこそこに家路を急いだこともあった.ただし,3人の娘についてそれぞれ1週間程度ずつそんな心境の時が有った程度で,後は子育ては奥さんに任せっきりだった.

 啄木の日記には酒場などでビールを飲むシーンなどが時折描かれている.しかし,酒の旨〔うま〕さや,酔ったときの心境を綴〔つづ〕った歌がほとんどない.酒が嫌いだったのか,酒は飲むくせに酔った時の自分が嫌いだったのか?イメージ通りに真面目な男だったのか? 私など酒好きから見れば不思議な文学者である.

    こころざし得ぬ人々のあつまりて酒飲む場所が我が家なりけり  (啄木『一握の砂』)

 数少ない酒に関する歌だが,何だか嫌な歌である.こんな奴の家で酒を飲んでも旨くない.この男は,集まって酒を飲んでいる仲間を心から受け容れていない.こんな場所なら,頼まれても鍋の会なども開きたくない.

 宮沢賢治もお酒を飲まない人だったらしい.別に酒が飲めない人は嫌いだと主張しているわけではない.賢治は行き付けの蕎麦〔そば〕屋に行くと,いつも天ぷらそばとサイダーをセットにして注文をしたという.賢治がどんなでくのぼうになりたかったのかは知らないが,東北の冷夏を嘆くのは良いとして,厳しい冬の夜さりにどぶろくを温める喜びを知らなかった奴など,聖人であったのかも知れないが,文学者としては信用したくない.

 ところで『幾山河』だが,私も50歳台の後半に差し掛かっているのだから幾山河を越えてきたのは間違いない.だからと言って,幾山河越えさり行かば寂しさの果てなむ国ぞ,と詠嘆〔えいたん〕するほど気障〔きざ〕ではない.しかしこの幾山河を,私が出会ってきた引きこもりの本人や親たちのことに置き換えて考えてみると,いささかの感懐なきにしもあらずである.
  いや,たくさんの引きこもりを救ってきたのに,引きこもりは後も絶たず,先が長いなあと嘆息〔たんそく〕しているのではない.幾山河と言っても『山』も『河』も余り変わり映えはしない.同じような山や河を幾つも越えて来たのに,いつまで経〔た〕っても同じような山と河が現れる.要するに,どうやら山と河を越えるためのアドバイザーであるらしい私なのだが,そのアドバイスを有効に的確に伝える方法が確立できていないのが,自分自身として歯がゆいのである.『けふも旅行く』ではどうもカッコ良すぎる.もうだいぶ昔になるが,クレイジー・キャッツが歌っていた歌にこんなのがあった.

  ひとつ山越しゃ ホンダラッダ ホイホイ
    もうひとつ 越しても ホンダラッダ ホイホイ
      越しても 越しても ホンダラ ホダラダ ホイホイ

と,こんな心境の方が今の私には相応〔ふさわ〕しいのかも知れない.もっともこの歌の後半は

  どうせ この世は ホンダラッダ ホイホイ
      だから越さずに ホンダラッダ ホイホイ

となるのだが,越さないと言うわけには行かない.私なら

     だけど もひとつ ホンダラッダ ホイホイ

と,心の中でつぶやいている.こんなのは,抒情などとは無関係だね?だけど,私にとって酒を飲みながらつぶやくのは,牧水や啄木よりも青島幸男なのである.
(6月10日)