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NPO法人ニュースタート事務局関西

VOICE

自分で自分が何であるかを決めた頃 - 11

 全共闘運動の詳しい経過については書店で探していただければ,いろんな方が書いておられます.ただ,今の若い人には読んでも分からないかも知れません.時代背景や経済環境が違うからです.全共闘運動の結果的敗北や,その後の70年安保闘争,さらには赤軍派の台頭と自滅を通じて学生運動は急速に衰退しやがて消滅して行きました.私自身もその消滅の過程の一端に関わることになりますが,思いきって全部省略します.全共闘運動はそれまでの左翼学生運動とはまったく異なった質を持った運動でしたが,それはその後の学生運動そのもの衰退,消滅や東西冷戦の終結から左翼マルクス主義運動の敗退などを先取りしていたのかも知れません.ただ,沈黙してしまうには惜しいと思われることや楽しい思い出もあり,いずれ酒飲み話の席上でご披露することがあるやも知れません.

 いずれにしても京都大学における全共闘運動は1969年9月に時計台に立て篭もる全共闘系学生が機動隊の攻撃で排除され,バリケードが解除されることによって事実上崩壊しました.翌70年1月,私はバリケードストライキ中のある事件に絡んで警察に逮捕され,起訴されることになります.
  この裁判自体は,判決が下りるのはその後10年もかかることになるのですが,この事件は私がある意味で『自分で自分が何であるかを決める』ための2番目で,そして最大の決め手になったようです.

 この事件はバリケードストライキ中の京都大学教養部で正門のバリケードを『オートバイで突破した奴がいる』と通報があり,教養部構内に泊まりこんでいた全共闘系学生が捜索したところ,ストライキ反対派の政治党派に属する職員を発見し,問い詰めたのが『監禁致傷』事件に問われるのです.
  現場に居合せたのは約三十数名であったと思いますが,そのうち6名が被害者及び京都大学教職員組合から告発されました.被告発者は京都大学全共闘を構成する各党派を代表する活動家たちで,私は党派活動家ではなかったがそこに含まれていました.中には,代表的活動家ではあったが当日大学構内にはいずに,明らかなアリバイの成立する人もいました.いかに良い加減な事実関係を元に,意図的に人選して告発をしたかが分かります.逮捕されて取調べを受けた人の中には,警察で『自分は暴力行為に関係していない』と主張して「無罪放免」になった人もいました.

 私にも『逮捕状』が出されていることは大学の学生部からと,実家のある釜が崎の西成警察を通じて母親からも知らせてきました,『出頭すれば穏便に済ませる』という警察の内意も伝えられていました.私は≪出頭≫(自首?)することを拒否し,その代わり,逃げ隠れせず,『逮捕しに来い』と伝えて,西成の実家に帰りました.パトカーが来て私を逮捕し,西成署から京都の川端警察署に連行されそのまま23日間留置場生活を送りました.
  底冷えのする京都の1月から2月に掛けての23日間は,決して安楽な留置場生活ではありませんでしたが,不思議と寂しさとか不安感は感じませんでした.私は23日間の取り調べに沈黙を守りました.
  結局,この件で逮捕され起訴されることになったのは,私ともう一人中核派の活動家であったF君の2人でした.F君は当時,別件の新宿の騒乱事件でも指名手配されており,この『監禁致傷』事件について出頭して『申し開きする』ことができない立場でした.

 このときの22日間,別に悲愴な決意をした訳ではありませんでしたが,いろんなことを考えていました.告発されながら逮捕を免れたり,起訴を免れた人たちがさまざまな架空のストーリーを話し,やがて私とF君の2人が『中心人物』であるかの筋書きができかけているな,とも感じました.事実そのとき逮捕を免れたある男は,20日後に私が保釈されたときに川端署の玄関口で『ごめんなさい!』と最敬礼して詫びたのは,自分の逮捕を免れるために警察の組み立てた筋書きの調書に署名したことの告白でした.おそらく,私自身も自分が暴力行為に関わっていないということを主張し,代わりに警察が用意するであろう別の『真犯人』についての調書に署名さえすれば,早期に釈放されるであろうことは知っていました.

 しかしその23日間,私は中学を卒業するときに同級生のS君から渡された『君は卑怯者だ』との一言だけが書かれた手紙を思い出していました.
  S君はその後の消息で,私とは別の高校に進学し,別の大学に入って既に卒業し,釜が崎近辺にある某中学校の先生になっていることを聞いていました.彼自身もスラムの住人であったS君は,スラムの教師になることによって,私とは違う人生を歩んでいました.

 彼のその夢は,実は私も中学時代から聞いて知っていました.その当時の私は,釜が崎の中の改革派教師になるよりも,釜が崎の『城壁』から抜け出して『外からの』改革者を目指そうとしていました.彼とは別の道を歩んだことになります.私が『城壁』の向こう側に出たのか,出なかったのかはまだ,はっきりとはしていませんでしたが,少なくとも私はもう「『卑怯者』と呼ばれるのは嫌だ」と考えていました.その考え方が『自分が自分であることを決める』ことになるということはよく分かっていました.つまり,その事件で私は『有罪』を宣告されることを選んでいました.むしろ『望んだ』と言ってもよいと思います.
2002.9.25
にしじま あきら