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NPO法人ニュースタート事務局関西

VOICE

炭火の風景

 篠山での出来事が終わった次の日,同居人への理にあわないいら立ちを感じながら,表すこともできず不機嫌に一日を過ごした.
  いかにして社会に身を投じればいいかと,考えてしまうと,どうにもなっていかない重石が頭の底辺に横たわる.
  できるだけ考えずにおこうと,持て余すからだが一日を越すのを待った.

 今回は篠山の「無の家」といわれるところで,鍋の会は行われた.「むー」または「むぅ」と発音されるらしい.
  「無」の漢字からくるノイズにも似た雑なイメージが,目的地に近づく中,でたらめに移ろいでいった.郊外にできた新しい駅に多く,まだ辺りの景観に馴染まないJR篠山口駅を駆け抜け,予定通り来たバスに乗り込んだ.
  たばこを吸う暇もないスムーズな乗り換えに少々の戸惑いを感じながら,途中下車をしてもいいではないかと自らをなだめ,座席に浅く腰掛ける.
  緑の種類をいつもよりも多く識別しながら,20分程バスに揺られていると車窓から見下ろすように視点を変えた.
  篠山が城下町だとは知らなかった.連休ということもあり,多くはない観光客が訪れた町を歩いている.遠くに広がる山よりも,突然あらわれた町並みの方が無のイメージを柔らぐようであった.
  本篠山のバスターミナルに着き,乗客は観光客から住民に入れ替わり,しばらくいったバス道沿いにその家はあった.

 会話とその間は,豆炭のつき具合によって進行していった.
  炭に火を移す要領を得なかったこともあり,豚肉は焼ける音もたてず赤みを残したまま,目的を失ったように網にのっかっている.
  時折,豆炭に落ちる肉の油が音となり,話題の転換を促す.腹は空いていたが,外気を含んだ畑の隅に陣取ったその空間は心地よかった.

 そして,そんな中私は炭に火を移すことに夢中になり,3年前の友人との花見を思った.この日のように明るい陽射しの下ではなく,春になりきっていない寒い夜だった.日本有数の桜並木が続く場所に出向き,桜の木に身をゆだね騒いだ.周りの花見客は次々と帰りだし,渋滞していた車の列の最後を見送る.私たちは自分と他人を区切ることができなく,一緒になることもできなかった.上着を一枚重ね,夜は深まり私達だけが残された.私はたき火が静かに燃えるのを眺め続けていた.それが神聖な行為に思え,できるだけ長い間そうしていた.食事を終えると,豆炭の火はその時よりも鮮やかすぎるオレンジ色をしていた.

 豆炭が火鉢に入れられ,部屋に持ち込まれる.空間の狭まりと夜の闇が,お互いの距離を近くし,昼と違った表情を確認する.
  親と子や性別や世代,人と人とのズレが,対極的な議論のようなものに発展する場面もあった.そして,なんと言葉にすればよいのか,何をいいたいのかさえ分からなくなり,話は展開を失う.
  しかし,そこには笑いがあった.皆は話が行き詰まることを理屈ではなくとも分かっているのではないかと感じた.
  それぞれが持ち込んだものがその場で昇華したわけではないが,ズレを楽しめたことはのちに理解する努力を迫られた時の力になるのではないだろうか.しかし,それすらも本当に力になるかどうかは分からない.
  その場において,どうすれば良いか,どうしたらいけないかという結論のようなものは出しがたい.言葉に宿されたものに対して,私は少しの誂えものを返したにすぎない.

 あるやないということが無いのですと,無の家の管理人さんは,無のイメージをもらした.

 朝起きると火鉢はまだぬるい熱を帯びていた.畑の中で,私は新しく畝を立てようとしていた.皆が動作の緩やかな作業だったのに対して,ひとり激しく土にあたっていたのでフラストレーションがたまっているのではないかと恥ずかしくも考えた.
  私はその行為に賭けようと思ったのかもしれない.目に見える形としての一列の畝だけでなく,自分の内に刻まれるものを期待していたのかもしれない.

 休憩ということで,畑の傍らに座り一服し時計を見たらまだ10時になっていなかった.私にはそのことが無性に嬉しく,今度はもう少し無心に畝立てに励んだ.
たかはしあつとし (サポーター会議会員)